夜              武田百合子 (1925-93)

どこかの醸造やの酒ぐらで
酒が凍ることがあると
だれかがいつた。
美しい酒が凍るのは
きつとこんな夜かもしれない

山はねてしまつた
もし ひとつの星が杉の森に
深くおちたとしても
だれも目をさますものはあるまい
風だつて今夜は岩かげに眠るらしかつた
動くものは宿のランプの灯のかげ。

今こそ
峡のすい晶はきびしい音をたてて
結晶をはじめるかもしれぬ

すゝむちやん

今夜あたりは
星の熟柿が自分のおもみに
たへかねて
川におちこむかもしれない

生れて始めてのやうな
しづかさだね

・同人誌『かひがら』(1943、号数不明)所収